大切な人へ声を届けよう
4月4日晴天の下、近畿大学の入学式でつんく♂さんが衝撃的な祝辞をした。
癌を患い、生きるため治療をし、その結果、声をなくした。その経験を重ねて祝辞をした。このニュースに僕を含め、ほとんど日本人が、驚きを隠せなかっただろう。
僕は祝辞を見たとき、瞳から涙が落ちた。
”
ここまでの人生はもしかしたら受け身だった人もいるかもしれません。
親が言うから・・・学校の先生がすすめたから・・・でも、もうすぐ皆さんは成人します。もう自分の人生を歩んで行くんです。後悔しても意味がないんです。今から進んでいくんです。
自分で決めて進んで行けば、絶対に何かを得、そしてまた次のチャンスへと繋がっていくんだと思います。私も声を失って歩き始めたばかりの1回生。皆さんと一緒です。
こんな私だから出来る事。こんな私にしか出来ない事。そんな事をこれから考えながら生きていこうと思います。
皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。それを追求すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりでは無理なんだという人生が待っていると思います。
(一部抜粋)
”
こんな言葉は壮絶な経験をしていないと言えないだろう。
声を失った人が思っていること、考えていることなんていうのは、その人でしかわからないことだろう。
ただ、想像し考えることはできる。僕は、そのニュースを見たとき、自分がなったらどうなるのだろうと想像をしてしまった。そこでその祝辞を見て涙がこぼれてしまったのである。
手術の日は分かる。すなわち声がなくなる日は分かる。
それまでに、声がある残りの日々はどのような気持ちだったのだろうか。1ヶ月前、1週間前、1日前、1時間前、直前。そんなときどんなことを思うのか。そんなことを想像しながら祝辞を眺めていた。
大切な人に届けることも、大切な人との会話も、できなくなるのだ。将来生きていくためということでも、本当に本当につらいだろうなと、感じることはできた。
同時に、普通に話していること、大切な人に声を届けられること、大切な人と会話できること。そんなことが本当に幸せなんだと感じた。
言葉を武器にする人もいる。言葉で罵倒する人もいる。言葉でいじめをする人もいる。そんなことで、声を使うよりも人を幸せにする声を届けられる。そんな人になりたい。
もっともっと大切な人との会話や、大切な人へ届けられる声を、本当に大切に感謝して生きていこう。そう思える出来事であった。
部活から学べることとは
久々に母校の部活の応援に行った。
部活とは本当に良いものだと感じる。自分もそうだったが、目の前にある結果を求めて、ひたすら練習という積み重ねをして、ひたすら同じ作業をする。
プロになるという夢もなく、将来役に立つかもわからないその部活に、青春時代のほとんどの時間を費やす。
ある人は一回戦でその積み重ねの時間が終わり、ある人は一瞬で終わる。
その膨大な時間を使ってまでやっている自分の感情は本当に充実感がある。大会の集大成にはそんな不思議な感情がある。言葉では言えない本当に強い力が部活にはあると思う。
マネージャーをする女性も自分ではなく、感情有り余って涙するものもいる。
なぜ、将来役に立つかもわからない、プロになるということでもなく、続ける人々が多いのか。それはこれからも僕は分かることはないのではないかと思う。
ただ、これだけは言える。最後の試合が終わった時、成長を思い、積み重ねやっていた達成感ではなく、共に積み重ねをしてきた友、共に感情をぶつけてきた友、共に笑った友、共に涙を流した友、その存在と握手をした時の不思議な充実感。今後味わえるかどうかわからないが自分はこのために頑張ってきたんだなと心から思えた。
僕は部活をやる意義は正直答えることはできない。ただ、それを知っているのはやったものだけだと思う。
そんな充実感を求めて私はこれからの自分の人生を考えてみたい。
夢を狭くする人の心
人は幼い頃にはなりたい夢があり、それは幼ければ幼いほど、なりたいという思いは強く、口に出す。
時が経つと同時に、夢が狭くなり、口に出すことはおろか、人の夢をバカにするものも現れる。
ある人は、その夢を通過点にし、あるものはその夢を叶えただけで、終わってしまう。あるものは夢は夢と分け、自分では届かないと考える。人の夢とは様々で、十人十色である。
そして、一番よくあるパターンがこれだ。現実と夢を天秤にかけ、結局現実を取る。そもそも現実とは何なのかよくわからないがこれの言い方が一番伝わりやすいだろう。
現実と夢にはかなりの壁ができるのだろう。
ただ、現実を見るというのは、自分が今いる位置を認識し、認め、今最善でなるべきことを考えるためにある。とかんがえる。
夢は一種の意思だと思う。意思が強ければ強いほど、口に出し叶えられる。
人は夢を忘れてしまう。
まるで人が痛みを忘れるように、夢も忘れてしまっているのだ。
夢は忘れないようにしよう。
忘れないように、情熱を注ぎ込もう。忘れないように口にだそう。忘れないようにどこかに書き綴ろう。
それだけで人生は変わるのでは?
人生の選択とは
ある出来事が起きたとしよう。
自分にとって良くないことが起きたとしよう。
そんなことは誰しもが自分の人生の中にあるはずだ。
それを自分の人生にとって、どう捉えるか。それによって今後の人生はかなり
違ってくるだろう。自分にとってただの不運なのか、ただの残酷でどうしようもない
出来事なのか。それとも、これから乗り越える出来事なのか。
そんな捉え方で今後のすべてが変わるだろう。
未来の自分がその出来事についてよかったと言えるか。それとも、ずっとその出来事に
捉われて生きていくのか。
人生の選択。
そんな一つの出来事が人生の選択とも言える。
ただもう一つ人生の選択があるはずだ。
重要な分岐点では、人々は良く考え、深く考え、意図的に選択する。
それはどう捉えるかという問題ではない。どう生きるかという問題に対して、
ある重要だと人々が思う選択である。
ただ、重要なのはそんなことではない。
さりげない日々の瞬間ごとに、気分や感情、行動や態度を選択している。
そんなことはほぼ無意識にしているだろう。
だが、人生は一日、一時間、一瞬の出来事の連続である。
君が今、この時をどんな行動を、どんな態度で出来事に取り組むか。
そんな選択が未来の君が成り立っていくのだ。
君は今日、この一瞬をどのような選択をして生きるのか。
その連続が、君の人生を創造していくのだ。
さて、今日も一瞬一瞬を良い選択をしていこう。
彷徨う我が人生
運が良いとは
運とはその人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指している。
運が良いとは到底実現しそうもないことを、偶然実現させてしまうことなどを指している。逆に悪いとは、楽しみにしていた旅行の当日に、発病してしまうことなどを指している。wikipediaを見るとそのように書いてある。
だが、そもそも運とは本当にあるのだろうか。同じものごとが起こっても人によって捉え方が違い、受け方が違う。そんな中、運が良い、運が悪いということ。それは結局人が決めるのではないか。いつも一緒にいる友が決めるのではないか。なにより、自分が決めるのではないか。
人が結局はそのように思うからこそ、運があるのだろう。
運がよいかは悪いかは自分次第。そんな風に生きてみてはどうだろうか。
運が良いと思えば運が良い。悪いと思えば悪いのだ。運が良いと思えば、これからも運がよいと思えるだろうし、運が悪いと思えば、これからも運が悪くなる。そんな感じがしないだろうか。
君は自分の人生は運がよいと思える生き方をしているかな。
幸福な人生を歩む君に
ジェセフ・マーフィーはこう言いました。
ジョセフ・マーフィー(Joseph Murphy, 1898年5月20日 - 1981年12月15日)は、米国で活動したアイルランド出身の宗教者、著述家。 - Wikipedia
”
幸福な人生を歩んでいる人は、
言葉の使い方を知っています。
言葉は選んで使いなさい。
言葉の選択一つで、
人生は明るくも暗くもなるのです。
”
人は普段思っていること、考えていることしか口に出せない。
ただ、意識をすれば、すなわち、考えていれば口に出すことは変えられる。
人生を明るくするかしないかは、君が口から出すその一言から決まる。
その一言から人生を明るくしよう。
君はどんな言葉を使っているかな。