戦争とは
沖縄に久しぶりに行った。
タクシーを呼んで半日ツアーを組んでもらい、摩文仁の丘、ひめゆりの塔に行った。
戦後70周年ということもあり、前回の時よりも多くの方が来訪していたような気がする。今回は完全な私用だったため、タクシー運転手の方に案内していただき、いろいろ話を聞けた。
摩文仁の丘には、まだ刻まれ続ける方の名があり、沖縄には未だに不発弾が残っているという。戦後70年という長い月日が経過しても、傷は癒えず残り続けているんだなーと思った。
団体で行った際には、あまり詳細には聞けず、起こったことをただ他人事のように頭の中を通していたんだろうと、今となっては思う。
運転手の方は80過ぎの男性で沖縄戦のとき、沖縄にいたということらしい。そんな方から話を聞くと自分たちはどんなに良い時代に生きてきたのだろうかと思うほどだ。
そして私は衝撃的な場面に出会う。
運転手は一緒に沖縄を観光案内することはしても、ひめゆりの塔には滅多に行かないらしい。理由は教えてもらえなかったが、今回は特別に来ていただくことができ、そこで理由がわかった。一人で寂しく私が回っていたこと、よく沖縄戦のことを知りたがってたということで、特別に案内していただいたのだ。
ひめゆりの塔には、奥に行くと当時亡くなった女性の写真が飾られている。私はよくこんなに写真が残されているなと感心されていた。ふと運転手の方を見ると、ある女性の写真の前で立ち止まっており、懐かしいような目で見ている。
特に聞きはしなかったが、私はその方が運転手にとって特別な方なのだろうと知った。数分間は手を合わせ、祈っていた。まるで近況を報告するようにその場に立ち祈っていた。
戦争というものは本当に残酷なんだなと私は思うと同時に、当時の日本を生きてきた先代の方々が本当に辛かったんだろうなという心であった。
そんな先代の方達がその時代を強く生きてきたからこそ、豊かな私たちが生きているこの日本があるのだろう。
私たちは未来の子供たちにどんなことができるのだろうか、先代が苦しみながら築いてきた今の日本を引き継ぎ、今後はさらによりよい日本を築くためにはなにが必要なのか。
そんなことを考えさせられる旅になった。
すいませんよりありがとう
すいませんよりありがとう。
高校時代の頃、先輩の一人が全校生徒にゆっくりと言葉を発した後、全員が耳を傾けるとわかったかのようにこう続けた。
日本人はシャイなのかよくすいませんと言います。
それは相手が自分のためにしてもらったことに対して感謝の意を込めてこの言葉とよく使う人が多いと思います。すいませんのなかにはありがとうも含まれているのかなと思えるほど多いのではありませんか。もしろ、ありがとうという意味で、すいませんを使っていることが多いのではないかと思います。
こんなこと考えたことがなかったと思いながらきいていたこの頃。先生のスピーチも委員長のスピーチも含め、あんまり人の話を聞くのが好きではなかった頃なのに、この時ばかりはずっと注目していたように思う。
自分に言われていると考えてみてほしい。
相手からすいませんと言われている姿。相手からありがとうと言われている姿。どちらのほうがうれしいか。そんなことは誰だって想像できるはずです。でも、なぜ日本人はすいませんというのか。文化なのか、くせなのかはわかりませんが、そんなものはいまからやめましょう。
すこし言葉を変えるだけで、人がうれしく幸せになるのです。すこしうれしくなるだけかもしれませんが、今後続けていくことで、周りの人、これから出会う人をすこしでも幸せに元気で入れるようにするためには、この一言を変えることはとても重要だと思います。
すいませんよりありがとう。私も気をつけていないと出るかもしれません。でもこれからはみんなでいっしょに変えていって、まずはこの学校からたくさん元気が出るようにしましょう。
これを聞いてから、なるべく気をつけているように思うが8年くらいたった今、どれだけありがとうが増えたのだろうか。
最近はあまり気にしていなかったが、京都に来てすいませんとやたら言う人がいてはっとした。やはり人を変えるのはたった一言でもすこしずつ変わっていくのだと感じたきっかけだった。
日本人
第一弾。
外には、店に入ってくる時には全く降っていなかったものすごい大雨が降っていた。
50mも離れていない立体駐車場の1Fなのに、今出て行くと服がびしょびしょになるのが予想できるほどの大雨だ。店の出口には10人ちょっとの人が雨が弱くなるまで待機していた。
5分くらい経過したところで、あるおじさんが「待ってられねえから行こう」と言って走って外に出て行った。そこからどどどっと待機していた人たちが外に出て行った。日本人っぽいなーと心の中で思った。
残った人は、「ママ〜、雨が降ってるよー」と言いながらママの袋詰めを待つ少年と、車椅子にのった男性、とその妻。少年のママが重そうな袋を持って少年のところにきたと思ったら、店の奥の方に消えていった。
第二弾。
さらに5分くらい経過すると先ほどと同じくらい人数が集まってきた。まだ、車椅子の夫婦は待機していた。そして、またあるおじさんが「よし」と言ったあとに走って外に出て行った。またどどどっとそれに続き出て行く人たち。またもや、心の中で日本人っぽいなーと思いつつ、私も待ちきれず走って外に出て行った。
案の定、着ていたTシャツはびしょびしょになってしまうものの、やはり自分も日本人の心をもっていたんだなと思う。
そんなことをしているうちに、立体駐車場に車椅子の男性の妻と、少年の母親が走って入ってきた。ん?子供と、車いすの男性がいないなーと思っていたら、傘を持った子供が車いすの男性を入れて一緒に歩いて入ってきた。タオルで体を拭きながら様子を見ていたら、会釈をしている車いすの男性とその妻。会釈をし直す少年の母と手を振る少年。
さっするに、少年の母は雨が降っているのをみて、車いすの男性をみて、傘を買いにいったのだろう。心の中の何かが湧き出てくるような、不思議な気持ちでいっぱいになった。
このような人になりたいなと素直に思った。
何より、子供にやらせることによって、思いやりの教育もできているように思うし、そのような教育ができている母親は自然にやったことかもしれないが、人にとって一番大切なことを教えているのだなと、そんなことを思える風景だった。
流れを待ってその流れに乗ることが多い日本人、人のため思いやりをもって接する日本人どちらも日本人がもっている特有の心。他にもたくさん日本人特有のものがあると思うが、人のためを思いやれる日本人が多くなればいいなと。
人生と山道
人生には峠のように上り坂と下り坂があって、
色々大変だなーと、つどつど思うけど、
谷があるからこそ山のてっぺんには綺麗な景色が広がっていて、
だからこそ、人々はその景色をみると感動するわけであるんだろう。
ならば、谷がないとその感動は味わえないわけであって
いまもしかして自分が谷にいるかもしれないわけだけど、
だったらいま頑張って登って行ったらきれいな景色が見れるんだろうな。
でも、今自分がどこにいるかなんて結局は
後からじゃないと分からないんだろうけど、
谷の底にいても、山のてっぺんにいても友の悲しみには一緒に悲しんで、
友の喜びは一緒に喜びたいなと。
そんな人になりたい。
物の視点を変えてみよう。
人生の幅を決める線
「あきらめたらそこで試合終了だよ」
スラムダンクの安西監督が放ったこの言葉。有名なメッセージのひとつである。
無理だとあきらめたその瞬間から人生の幅が狭くなってしまう。そんなことを感じる言葉である。自分を信じ、突き進み、あきらめない心があるからこそ人生の幅は広くなる。
人々は自分である段階で諦めるということを覚え、自分で線を引き、それを乗り越えようとしなくなることがある。夢と似たようなものだ。
それは本当に本当に思っていないと超えられない線である気がする。その線は、自分と向き合い真剣に向き合って自分を信じ乗り越えようとするから乗り越えられる線でもあるかもしれない。
すぐそこがあとちょっとで超えられるとしてもだ。
例えば、何日も何日も山の向こうを目指してトンネルを掘っていたとしよう。あと一振りで貫通する距離なのに対して、もう無理だと思い戻ってしまう。
そんなことが結構あるのではないか。
自分はそんなことはわからない。ただ、自分を信じ進んでいくものでないと線は超えられないのだろう。
ただ、ちょっとの挑戦をし続けることで人生の幅が少しづつ広がり、そしてやがてその線を乗り越えられる自信がついてくるのではないか。
君が掘っているそのトンネルは、すぐそこに別世界が広がっているかもしれない。